「イマ」なんて、誰が保証してくれるわけでもないし。 例えば世界中の人間が「イマ」を無かったことにしてしまえば、それで終わりだ。 バックアップも取れやしない。 まあ、問題はそんな大げさなものじゃなくて。 お前がオレを忘れてしまえば、思い出も約束も全部無くなってしまうんだと。 オレ達の今が消えてなくなってしまうのだと。 そんなことを、今更思い知った。ただそれだけの話。
R
山本が記憶喪失になった。
「まあ、一時的なものだと思いますよ」
原因は、寿司の配達の途中に自転車でこけて(なんでも猫かなんかをひきそうになったらしい)頭を打ったなんて、間抜けなもので。
「脳が強いショックを受けるとね、記憶が飛んでしまうというのは、まあまれにあることで」
ふざけんなよ、お前。何が記憶喪失だ。
「まあ、山本さんの場合は意識ははっきりしてるし、記憶もね、喪っていると言うよりはボヤけていると言ったほうがいいですね。ところどころ、思い出せないみたいです」
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
「まあ、気長に様子を見てあげてください」
オレは気が短いんだ!
つんと、薬品の臭いが鼻をつく、この病院独特の空気が嫌いだ。 あと、嫌がらせのように統一された白も落ち着かない。いいじゃねえか、別に。病院に赤や黄色があふれてたって。辛気臭いのもいい加減にしてほしい。 そんなどうしようもない愚痴を心中で呟いたところで、現状が打破されるわけもなく。 「あの、すみません。どなたですか?」
惚けたような、落ち着かない声音で山本が訊ねるのをオレは黙って聞くしかなかった。 「えっと、やっぱりオレたちのこと、全然思い出せない?」
静まり返った病院の個室に、十代目の声が響く。 ベッドに横たわった山本は、首だけをこちらに向けて困ったように笑った。 その表情があまりにらしくなくて、オレは個室のドアにもたれかかったまま、その場に座り込んだ。
「思い出せないというか、何もわかんないってか」 「ムリしないほうがいいよ、お医者さんも気長にっていってたし」 「うーん、なんか覚えてるような気もするんだけど、頭ん中にキリがかかってるみてーで、はっきりしねーの」
十代目は、お優しい。 とてもじゃないけど、オレには「ムリしないでいい」何て言えない。 「あ、あのさ」
ふいに声がこちらに飛んできて、オレは慌てて顔を上げた。すると山本と目があって、思わず息を飲む。 期待が無かったかといえば嘘になる。 こいつのコトだから、何を忘れても野球とオレだけは忘れないんじゃないか。そんな期待はあった。
「そこの奴さ、銀髪の。何かわかんねーけど、オレと仲悪かったんじゃね?」 「……はあ?」 「何か、見てるとすげー、胸がムカツクんだ。わりーけど、出てってくれねーかな?」
だけどそんな思いは見事に裏切られ、不覚にもオレは間抜けな顔を山本の前に晒してしまった。 「や、……山本?」
あまりのコトに声が出ないオレに代わって、十代目が名前を呼ぶ。 けれど山本はそれすら無視して、オレにとどめをさした。
「お前見てると気持ち悪い。吐きそー。ごめん、出てって」
そう言う山本の目は、ちっとも笑っていない。 心臓を握りつぶされるんじゃないかと言うほどの胸の痛みに気を失いそうになりながらも、オレは山本を睨みつけた。
「その言葉、記憶が戻っても覚えてろよ、てめぇ」
「ふざけんなよ!! 気持ち悪いのはこっちだっつーのこのバカ! バカがバカになったからウルトラバカだ! 畜生! なんだ気持ち悪いって! 胸がムカツクって! これはこっちの台詞だバカ!!!」 「いや、そういうセリフはさ、本人の前で言ってやれよ」 「言ってやったつーの!」 「言ってやったのは『その言葉、記憶が戻っても覚えてろよ』なんて陳腐な捨てゼリフじゃなかったのか?」
呑気なシャマルの声音に、オレは思わず手近にあった包帯を投げ付けた。素直に当たってくれればまだ気も晴れるのに、目の前の男はひょいと簡単に避けて見せる。
ムカツク!
「まあ、アレだろ。可愛さ余って憎さ百倍? そんだけお前の記憶が強烈に焼き付いてるってこった」 「ふざけんな!」 「愛されてるじゃないの、隼人ちゃん」 「黙れ、このヤブ医者!」
にやにやと笑みを浮かべるシャマルをきつく睨みつけて、側にあったイスをけり倒す。派手な音と共に転がったイスが山本に見えて、とどめとばかりにもう一度けりつけた。
「それにしても、お前ら上手くいったの最近だろ?」
ついてないねー。と他人事と笑うシャマルに、オレは「正確にはおとついだ」と心中で毒づいた。
山本とオレは、いわゆるそう言う関係である。いや、関係だった。 紆余曲折、という言葉では表しきれないほどの難関を乗り越え、その間にシャマルにもバレ、思いが通じたのはつい先日。 体が繋がったのは、おとついのことだ。 バカの一つ覚えのように、山本はオレに「好きだ」と繰り返した。 それなのに、両思い一日目にして、その記憶を山本は捨ててしまったのである。 苦しい毎日だったから。悩んで、泣いて、死んでしまいたくなるような毎日だったから。 その日がとても幸せだったから。山本の体温も、受け入れることが出来た自分自身も、すごく幸せだったから。 だからこそ、やるせなかった。 「気持ち悪い、とか」 「ああ」 「山本から、言われるなんて思わなかった」 気がつけば、保健室はメチャクチャになっていた。オレが暴れ倒したせいである。 山本と何かある度にこの保健室に逃げてきた。そうすると、最後には必ず山本が迎えにきたんだ。
「泣くなって。大丈夫、すぐ元通りになるから」
シャマルの大きな腕が伸びてきて、オレの頭を抱き寄せ、あやすように髪をなでる。 太陽が落ちて、もう野球部の声だって聞こえないのに、とうとう山本は迎えに来なかった。
つづく |