きじゃない


 

 

 

 いやいや、ていうか俺。こんなことしてる場合じゃないだろう。
 と気付いたのは、山本と付き合って一ヶ月も過ぎたあとだった。
 その日も俺は何故だか山本の試合を見にいっていて、ここの橋の上からがよく見えるん
だよなーとか考えていた。
 違う、それは違うぞ俺。何で真剣に山本の姿なんか追ってるんだよ。

「何やってんだか」

 わざと自分にいいきかせるために声を出して、俺はくわえたタバコに火をつけた。
 これ以上は危険だ。
 山本を振るために付き合っているのに、これ以上深入りしてどうする。
 バッターボックスに山本が入る。俺はその上にタバコの煙を吹きかけた。

「今日」

 目をつぶって、自分に囁く。

「今日もし、あの馬鹿がホームランを打ったら、別れるっていう」

 すぐに試合は九回裏に入っている。ツーアウト満塁。
 なんともお誂えむきの舞台ではないか。
 もしホームランなんか打って逆転勝ちして、喜んでいるところを突き落とせば、さぞかし山本
はがっかりするだろう。
 一ヶ月前はその姿を想像するだけでおかしかったのに、何故かいまは胸が痛い。

「打て」

 そうだ、打て。
 そうすれば、お前と俺はこれで終わりだ。
 これ以上深入りしないですむ。うっかりお前を『好き』になってしまう、その前に。
 いまならまだ、引き返せる。

「打て、山本」

 ピッチャーがボールを投げる。ストライク、空振り。
 ワン、ストライク。

「打て、打て」

 次のボールが山本に向かってのびる。やはりストライク、見送り。
 ツー、ストライク。
 山本が真剣な目をして、ピッチャーを睨む。
 次で、決まるような気がした。
 いくらチャンスといえども、いくら山本といえども。いつでもホームランを打てるわけではないし、
今日はこれで終わりだろう。
 やっぱり山本、お前はその程度の男だよ。しょうがねぇから、もうちょっと付き合っていてやるよ。
 どこかでほっとしている自分を確かに見つけて、嫌になる。

「畜生、打てよ、山本」

 ピッチャーが、構える。キャッチャーのミットは、揺ぎ無くストライクを構えている。
 ある意味、勝負だ。

 ボールが、ミットを離れた。

「打て、打て山本」

 そして俺を解放しろ。
 打て、打て、打つな、打て、打つな山本!
 二つの思いが俺の中でぶつかった瞬間、小気味よい音が当たりに響き渡った。
 俺の目の前を、白球が綺麗な弧を描いて青に消える。

「ほーむ。らん」

 嘘だろ、と。声にだせずに呟くと、山本が俺を見つけてこっそり片目をつぶった。
 馬鹿だ。こいつは、本当に馬鹿だ。
 持たれかかっていた柵ぞいに、体が橋の上に落ちていく。

「……馬鹿本、格好つけやがって」

 でも、自分の決めたことだ。いつまでひっぱていても、一緒なのは感じていた。

「さよならだ、山本」

 胸が痛いのも、息が苦しいのも。
 錯覚だったと思える日のために。

 

 試合が終わって、片づけをして、着替えを済ませると、山本は一目散に俺のところに
走ってきた。
 そして目をキラキラさせて、俺に言葉を求める。
 たぶん、今日のホームランをほめてもらいたいんだろう。こいつに尻尾があったのなら、
いま究極にふっているに違いない。

「おつかれ」

 とりあえずそう言うと、山本は帽子をちょっと深くかぶりなおして「ありがとう」と答えた。

「獄寺、あのさ、見てくれてた?」
「あ? 何をだよ」
「だからさ、最後の逆転ホームラン!」

 あれ獄寺のために打ったんだぜ、と恥ずかしげもなく真剣な顔でいってくる。
 ここが限界だ。
 まだ興奮さめやらない山本の顔を、俺は出来るだけ冷たい目で見つめる。

「山本」

 俺の声のトーンが違うことに気付いたのか、山本は押し黙ったまま何もいわない。
 ついさっきまで興奮して尻尾をふっていた(ようにみえた)とは、思えない表情だ。

「俺、お前と別れるから」
「……え?」

 虚をつかれて、山本は大きく目を見開く。俺はそれ以上山本を見ていられなくて、下を
むいて目をつぶった。

「最初から、遊びたんだんだよ」
「お前をからかって、ふって遊んでやるつもりだった」
「だから今までの全部嘘だぜ、この一ヶ月、全部嘘」
「俺は、お前が……嫌いだ」

 伝わっただろうか。きっと、伝わったのだろう。
 山本は何も言わない。でも、きっと悲しんでいるだろう。
 目をつぶっているから分からないけれど、もしかして、もう俺の前から去っていったのか
もしれない。
 目を開けるのが怖かった。目を開けて、その先に山本がいないのが怖かった。
 胸が苦しい。息が詰まる。

 ……なんでだよ? コイツを切り捨てたら、おさまるはずだったのに。

 小さく、目を開く。
 するとさっきより随分近いところに山本の姿があって、びっくりして頭を上げようとしたとこ
ろで、顔に影がかかった。
 それは山本が俺に野球帽をかぶせたからだと、すぐ気づく。

「あのさ、獄寺。俺、それ、全部知ってた、っつうか気付いてた」
「は?」
「もともと獄寺が俺をよく思ってないのは知ってたし、好きだなんていってもあしらわれるのが
オチだと思ってたから、獄寺が付き合っていいって言ったとき、たぶんからかわれてんのかなっ
て、思ってた。だから、ずっと振られるときの覚悟は決めてたんだけどさ」

 そこで山本は困ったように言葉を区切って、帽子をもっと深くかぶらせてきた。

「でも、獄寺。そんなことは、頼むから、泣かずにいってくれよ。俺、期待するから」

 は? 誰が泣いてんだよ?
 自惚れんのも大概にしろ、このボケ。
 といってやろうと思って口を開いたとき、大量の塩水が口に入り込んできて、もはや言い訳
はできない状況になってしまった。

「……俺、いま振られたからさ。もう一度いっていいか?」
「……なんだよ」

 しょうもねぇことならブッ殺す。

「お前が、好きだ」

 泣き顔を隠すようにかぶせられた帽子の上から、声が降ってくる。

「付き合ってください」

 
 ああ分かった。畜生、認めるよ。
 いまこんなに胸が苦しいのは、胸に毛細血管が集まってるからだけじゃなくて、お前が好き
だからだ。
 息が詰まるのは、それを伝えられなかったからだ。
 涙が出るのは、お前なんかに惚れたのが悔しいからだ。そういう事にしとけ、馬鹿野郎。
 そうだ、好きだ。山本。
 俺もお前が、好きだ。
 でもそれを伝えられないのは、素直じゃないのはデフォルトだから、見逃しとけ。

「いつか絶対振ってやる」

 負け惜しみとばかりにそういうと、山本が笑う。

「そうならないように、もっと惚れさせてやるよ」

 その余裕はいったいどこで身につけたんだよ。
 畜生、畜生、畜生、畜生。俺の負けだ、山本。
 いつまでも返事をまつ山本に、帽子と一緒に小さく俺は頷いた。


 まあ少し出遅れたけど。
 ようやくここが、スタート地点。

 

獄寺も山本も、お互いが好きすぎて身動きが出来なくなって
くれるといい。
好きという言葉は、簡単に口に出来ないから大切なんだと思う。